瞑想は智慧を開いて広げるため

今日は幼馴染の友(お寺の奥さん)が誘ってくれたので、仁平寺に「お話」を聞きに行った。お話をしてくださったのは、スリランカ出身のお坊様で、現在東大大学院で博士号をとられているらしい。因みに、仁平寺さんは檀家がたったの30!しかないらしく(まあ、田舎だしね)、本日も回りは檀家のおじいちゃんおばあちゃんと思しき人ばかり。ざっと50人位かなぁ。今日は他にもシンガポール出身のお坊様もおられたらしい。こんな田舎に、、、だからこそいいのだけれど。

六本木ヒルズの近くに禅宗のお寺があるそうなのだが、そこには有志のお坊様が集まってこられるらしく、そこで仁平寺の住職とスリランカ出身のお坊様は出逢われた模様。それで、今回のお話会の話がまとまった様子。明日は、禅宗の雲水が集まる講堂でお話されるそう。ありがたいことですね。

途中ちょっと眠くなったりしてボンヤリしていたので話が頭によく残っていないのだけれど。。。
瞑想は色んな目的でしたりするが、「瞑想は『智慧の拡大』のためにする。」というのが印象に残った。智慧を開いて広げる。
何度かこの言葉を言われたが、「やっぱり、そんな感じでいいんだ」っていう気がちょっとした。

瞑想で、よく「無」になることを言われるが、「無」になれと言われると、「無」になることを「考えて」しまったり(笑)。

仏教では、「智慧と慈悲」を大事にするが、知識だけだと慈悲の心が育まれなかったり、また慈悲といっても、それだけだと、なんとなくおぼつかない。それで、瞑想をする。
深くきちんと理解できた訳ではないけれど、ナルホド、ナルホド。

他には、スリランカのお坊様というのは、戒律が厳しく、音楽や映画を観てはいけない、歌を歌ってはいけない、自転車に乗ってはいけない、走ってはいけない(そんなぁ〜〜)等色々あり、お昼12時を過ぎるとお茶などの飲み物以外は口にしてはいけないそう。( ̄_ ̄|||)
私も午後から食べないっていうの見習いたいけど、無理。(~_~;)
でも「出家」、いい響きだなぁって思ってしまった。出家の際は、今までのものを全部捨てる。名前も捨てる。私も新しい名前欲しいなぁ(笑)

それから、年末の大津波スリランカも3万人を超える死傷者がでたそうだけど、でも被災者は飢えて死ぬという事はなかったのだとか。というのも、人に食べ物を分け与えるというのが徳に繋がる行為として普通に根付いているからなのだそう。

一緒にいったヨガの先生曰く、「本当にキレイな目で、吸い込まれそうな目」
ボケ老人は目つきが悪いと言われて、はや10年。目が現すもの=愛。ワテは腐ってんだなぁ。眼施、できるようになりたいものである。

仁平寺さんは、以前HPを作っておられたが、閉じられたそう。何故かな。1人で全部仕切っておられるそうだから忙しいのか、捨てる事(閉じる事)によって得るものの方を大切にしようとされたのか。聞いてみたい気もした。



スリランカといえば、「2001年宇宙の旅」の著者、アーサー・C・クラーク氏はスリランカに住んでおられたみたいだけれど、まだ住んでおられるのかな?まだ生きておられるのかな?