盆経

夕方お坊様が盆経をあげに来られた。ご院主さまではなくて、毎年サブ住職さま。

初めて来られたときは、読経のキーも高めだし、飄々とした感じで、若くて何とも可愛いお坊様だなぁ、と思った。あれから、十数年、ひょろひょろだったお坊様は毎日の読経の所為か、身幅も太くなられ、声も、地に空に、より響くようになられた気がする。

読経を聞きながら、私があの世に行った時、供養のための読経を上げて貰って、どんな気分なのかなぁ?訳も解らないお経を読んでもらって、効果あるんだろうか?等と、頭の隅に至らぬ思いがでてきてしまっていたのだけれど、お坊様が帰られてから、「これって、やっぱり供養のお蔭だったのかしらん?」と思う出来事があり、お経の内容が理解できなかったとしても、お坊様にお経を上げてもらうというのは、供養になるんだろうなぁ、と考えを改めた。
私が解る範囲というのは、ごく一部なんだろうなぁと思った。そして、私は信心という所から随分遠く離れてしまっているのだなぁ、と反省した。
訳もわからずとも、お坊様が来られるということ、読経の声が響く事、なんだか、すっとして、心の位置が座る事、そんなことが、きっと、ただそれだけでも、いいのだろう。

愛想のいいお坊様では無いけれど、5分もかからないお経を上げられたあと、少しお話をされていかれた。燕が沢山いますね、といわれたので、我が子供達を自慢するように(といっても私の子供ではないけれど)今年2回生まれて、私という個体を識別できるのか、よく私の周りをクルクル回ってくれるんです、というと、ニコニコ笑っておられた。

お坊様が来れれる前に、お香のにおいで落ち着きたくなって、お香(お線香ではなくて、香木の粉のお香)を焚いていたら、
「とてもタイムリーにお香が焚いてありましたね」とご住職。「実は、仏様用というよりは、お香の香りが好きなので、自分のために焚いていたのです。なんだか、そんなことではいけないかも知れないのですが・・」と私。

「他人のためだけに働けるようになったら、菩薩になれますよ」といわれたので、「この世にありながら、そのまま人間のままで菩薩になれますか?」と訊くと、「そういう人もありましょうが、私はダメです。なれません(キッパリ)」と断言された。

どっちでもいいかぁと思ったので、「まあ、お香は、自分の為に焚いたのですが、それが双方の為になったということで、、、」と言葉を添えておいた。

イマイチ、話が噛み合っているのかいないのかよく解らなかったりすることもあるけれど、その時必要な言葉だけ、勝手にありがたく頂戴する。


このご住職、以前、サーファーであるということを檀家さんから聞いた。人はそれぞれ、色んな側面があるものです。

今一番の気がかりは、少々頭が薄くなって来られているのでは?という所。因みにサブ住職さまは、まだ私より少し若いはずなので、たぶん三十代後半。別に、頭が薄くなっても、お経を読むのには差し支えないわけだから、問題はないのだけれど、でもやっぱり一寸気になる。

以前と変わらず、飄々とした感じは残っている気はするのだけれど、副住職さまには、副住職様なりのご苦労もおありなのかもしれない。

はげますわけにはいかないので、ただただ深深と頭を下げて、ご苦労様でしたと言ってお見送りする。