愚痴もよし

一昨日、自分でも本当に辟易する、相当にミニククイヤラシイ自分になった。これも一つの自分でやっている以上、間違いなく自分。

相手の為に我慢しようと思って我慢を続けたが、力がなければ我慢なんて続けることが出来る訳もなく、結局よくない状態に至る。個(我)が強くなった私は、他を排除したがり、異常な反応を起こしていた。

苦手なものも受け入れなくっちゃと思って、頭は受け入れるように強要してきたけれど、弱ってエネルギーを失い、追いつめられた心や体の方は、強要すればするほど、嫌がった。

言わなければ、相手には解らないのだけれど、とても弱っている時は、嫌だということを伝えられない。嫌だという言葉にエネルギーを与えてあげられない。弱りきった私は天にも地にも繋がる力をなくして、生命力をなくしていく。

すぐには回復できないでいたところに、Mお母さんから電話が掛って来た。ものすごく嫌らしい自分になったことを打ち明けた。すると「誰にでも、心にそういうものがあるから(マイナスの気持ちは発生するから)、体に溜めてしまうより、言ってしまってもいいよ」と言って下さった。辛い思いは言っていいと思った時点で無くなっていった。捕らわれの強い思いは消失し、感情のあまり乗っからない愚痴?(言葉)が流れていった。聴いてくれる人があるって有難いこと。

愚痴や不平なんか言わない人になれたらいいだろうけれど、それは私には無理。捕らわれる事なく伝わっていく想い、ガーンと伝わっていかない想い。色んな想いがあって存在するこの世。循環させないと生きていけないし、良くなっていかない。

本日より、愚痴は、Q条として、循環させて良いことにする(笑)。愚痴をも遊んでいけるように。


お腹(腸)に手を当てて、お腹を膨らませたり萎ませたりしながら、弱った腸の活動に意識を向けて、“自分でいていいよ”と言ってあげる。少し回復してきた気がした。きっと少しずつ、回復していくはず。

ごめんね。自分、身体、周りの人達。

外は少しずつ春。昨日はおおいぬのふぐりも咲いていた。同じだけど、同じじゃない。人も季節も巡る。近くも遠くも、内側も外側も、私の知ってる知らない所へ。きっと楽しいはず。