「懐かしい未来」

懐かしい未来」という映画を見た。個人のお宅での上映ではあるし一人では入り辛いので、アイコさんを誘って一緒に見に行った。

今回アイコさんのお陰で良い味わいで映画を見る事ができた気がする。アイコさんの希望している在り方に私も同調する所があるので、その辺りが映画をより味わえるものにしていたように思う。アイコさんのお陰でおまけに色んな美味しい料理も食べる事ができたし、勿論私が気付かない多くの方々の多くのお陰はあるのでその辺りにも感謝しつつ、でも今回はアイコさんに大いに感謝。

豊かさって何なのだろう?と先月何気に考えることがあった。清貧がよい?と思ってきた(主にそれで躾けられてそれに納得してきた)ふしがあるので、豊かさとは縁がなく?遠かったかもねぇ〜等と思いながら我を振り返る。

豊かさというものを当てはめるジャンルも色々あるけれど、とりあえず人を対象としてクラスメートを思い起こしながら豊かさについて眺めるように考えてみた。どの人の事を豊かに感じるか?お金を持っているからといって一概に豊かとは感じていないのだろうなぁと思った。勿論、貨幣経済の中にいるのでそれが関係しない訳ではないけれど、でも私的には、沢山の人に出逢ってきた人、こうしたら楽しい、とか、こうしたら人が喜ぶと純粋に思って、自分も他人も喜ばせてあげた人、色んな良きものに触れてきた人、確かな繋がりを心に持った人、コツコツと何かを積み上げたり継続してきた人、沢山の経験をしてきた人に豊かさを感じるようだなと思った。

今の延長上に、貨幣経済から完全に切れているビジョンを描くのは難しいというか、個々が多様に生きるこの社会で現実問題として想像する事は私にはできない。今の私に、何処までリアルに創造できて、実際に現実に移すことができるか。

貨幣経済が遮断されたら、どうするだろう?どうなるだろう?とも考えた。誰か一緒にいて貰えたらいいけれど、そして一緒に生きていけるコミュニティを形成できればいいけれど、私にはそんな準備もないし、築きあげてきたものもない。貨幣経済が遮断された場合に私が存続できる可能性は低の中の低。

今現在、貨幣経済から外れることはできないけれど、でも個人の中で貨幣経済から切れた部分を持つ事はできる。それは意外と豊かで楽しくて幸せな部分になる。そしてそれはとても大切であることが解るはず。

「この家は七代も続く家」「貨幣経済と関わることなく完全に自立した生活」「家なんか近くにある自然のものを使って共同して作っちゃう」「一週間かけて結婚式」「収穫の後に、何日も歌ったり踊ったりしてお祭り」・・・だなんて、ラダックは素適だし、良いなと単純にそう思える。

貨幣経済が入ってくる前のラダックは貧しくは無く、むしろとても豊かだった。守られて、コミュニティがあって、でも決して窮屈なんかではなくて、極端な辛さを一人で背負うことも無く、ゆとりがあって、無理なくお互いにシェアしあえる豊かさがあった。誰かを何かをあまり削りすぎることなく豊かになっていけたらよいなと思う。育みながら、育まれながら、豊かになってゆけたらいいなと思う。今の場所から、今の場所で、そうなりますように。そうなって行きますように。


ボクの食せーかちゅも もうちゅこし豊かになりますよぉーに。by黒猫クーちゃん


追記:上映後に手料理を提供して下さった皆様大変にありがとうございました。中東料理?他、数々のご馳走、とても美味しかったです(感謝合掌)。