信じる信じない

信心はあるような無いようなの私。先日「信じない」という言葉を聞かされた。今までも「信じない」という言葉は深く私の心に入ってきていることもあって、「信じない」と言われると、随分とまたマイナスな気分に捕らわれてしまった。心、ヨワヨワで、それ以降、信じるということに関して何気に思考を巡らしていた。

同じ現象、同じ出来事、同じ物質(壺とか?代替医療とか?宇宙の事とか?薬とか?健康補助食品とか?宗教とか?偉い人とか?言葉とか?UFO?とか、、etc.)でも、信じたり、信じなかったりする。

知らない事、経験・体感のない事などは信じないのが普通だろうなというのが漠然とした私の答えだった。

今日たまたまお寺のご住職が檀家に向けて書かれている新聞?を斜め読みしていたら、おもしろい一文があった。

親鸞上人は「私において信心ということがあるとすれば、それは、聞こえていることだ」と言われたとか。その文の後に続く住職の説明というか解釈(味わい)と、私が解釈するもの(味わうもの)には、違いがあるのだけれど、でも、親鸞さまのこの言葉は、私的には非常におもしろく響いた。

親鸞さま、いいっ!おもしろいっ!!

「聞こえているか?」信じるということは、そんなところに起因している気がする。

 ヘタナ我ヤ執着ナク、キコエテ イタラ イイナ・・・   


配られた新聞?によると、9月15日(土)午後7時より養老孟司氏が公開講演会に来られるそう。場所は山口市嘉川の正法寺。講題「生命の不思議」。久々の(私的にだけれど)有名人がお寺さんに来られるので、信心は薄々ですが?(苦笑)講演会には出かけてみようと思います。興味あるかたは、是非に。無料です。