何のためのヨガ

久しぶりにヨガに行く。先回うっかり忘れていたので、今日は約1ヶ月ぶりのヨガ。
いつもの如く時間ぎりぎり本堂に入ると、先生はいつものように、柔らかく少し幽玄な感じの佇まいで座っておられた。少し遠巻きに見る先生は、何とも不思議な雰囲気を醸し出されている。

照明を消された本堂の真ん中に蝋燭が灯され、その明かりの中でするヨガは、心も体もひんやりとして、とても落ち着く。

先回ヨガは、頭の中にグルグル色んな雑念が湧いてきて困った。「頭がうるさい!」とヨガ終了後先生に話したら、つぼに入ったのか、とても笑われた。

頭がうるさいのは、煩わしくはあるけれど、苦しいものではない。しかし先回は初めて肉体以外でとても苦しい思いをした。

ヨガの終盤で各部を緩めているときのこと。いつも、足先から〜ふくらはぎ〜太もも〜内臓〜肩〜腕〜指先〜首〜喉元〜頬骨〜瞼〜頭蓋骨(本当はもう少し細かい部位毎だけど省略)と緩めていく。何処まで緩めたときだったか、突然、訳も無く怒りの感情が自分の中に湧いてきた。どうすればいいのだろうと思いつつ、その起こった大きな怒りは静まりそうになかった。どうすればいいか判らず、その怒りを感じつつも暫くそのままにしていたら、その内過ぎ去ってくれた。まるで金縛りにあった位、苦しいものだった。

本などからの知識からすれば、自分の中の隠れた感情が、、、ということになるのだろうけれど、自分でもそうなんだろうなと思うけれど、確かに自分の中に無いものを味わおうはずも無いのだけれど、余り囚われても仕方ない事にして、軽く「そうなのね」と数日間味わって、スルーした。

梅雨時期にするヨガは、気温も湿度も高いこともあって、アーサナを少しやっただけで、すぐに熱くなってくる。

勾玉のポーズ、かえるのポーズ、猫のポーズ、バッタのポーズ等等をして、最後はパーミング。このパーミング(手のひらをスリスリ石鹸を泡立てるみたいに擦りあわせ、気を手のひらに集めて、眼の上にかぶせる:気を眼の中に吸い込む)を先生は気持ちいいと言われるけれど、私はいつもよく解らない。気功に行っていた時も同じような事をしたけれど、やっぱり気の感じは掴めなかった。

蝶々やツバメのエネルギーは目でみてそのエネルギーを私なりに少し感知することができるのだけれど、パーミングの方はいつもさっぱり解らないというか、何も感じない。

そこでヨガが終わってから先生に訊いてみた。「パーミングがぜんぜん解らないのですが、、、」
すると先生、「え?解らないの?嘘でしょう?」と少し驚かれた。
解らない私は、「ええ、ぜんぜん解らないのです。」と答えた。
結局、解らなくてもいいから、イメージの中だけでもいいと答えて下さった。

他にも今回ヨガに来る前から、そしてヨガをしている最中も、浮かんだ疑問「何の為にヨガをするのか?」と言う事について訊いてみた。

より簡単な事例に集約して捕らえておくと、後でその状態を再現するときに便利だからと思って、足がかりとなるものがあればいいなと思った。ある種の何かの状態を掴みたかった。するとヨガの最中「体の緊張、顔、頭の緊張、ぜ〜んぶ取って、イイ顔〜(←モナリザの微笑みたいな顔?)」になる為というのが思い浮かんだ。

先生の答え如何なのだろう?と質問してみると、「ヨガは無になるためのもの」というものだった。

はたして無とはなんぞや?と思う。私などは、無になることなんてありえるのだろうかとも思う。無の状態なんて、楽しいのだろうか?(楽しいなんてことを引き合いに出している辺り既に違ってますね^^;)とも思う。そして無になんかなれなくてもいいや、と諦めてもいる。頭が良くないので、突き詰める頭がないことは幸いなのかもしれない。凡夫の私は、時々そんな状態になっていることがあるのかもしれないね、っていう程度でいいことにする。

いつか、先生が言われる「無になるの為」を目指そうとする時が来るのだろうか?それは死ぬ間際でいいとも思う。その時にいい状態になれるようになっておきたいとは思う。

そういえば、今までは、ヨガは、腰痛予防や、身体機能(可動範囲)のアップのためにしていたので、違う側面でヨガをみた自分には、おりこうさんと言っておいてあげよう。

薄いピンクのバラのようなエネルギーを持っておられる先生。今日もアーサナの途中に側にこられる先生は、とても気持ちよかった。何かを習熟しようとする時に、導師の存在はとても重要になってくると思うけれど、この先生に習えることは、とてもありがたい事だと思う。

暫くお休みをしていたこともあって、久しぶりに顔を合わせたオジサンに、元気にしていたかどうか声をかけてもらえて、とても嬉しかった。今年初物のビワを頂いた。一緒に集える仲間があるということは、嬉しくありがたいことである。

掴めなかったパーミングも、何故か帰りの車の中で、少し掴めてしまった。先生の御蔭か、美しい月夜の所為か、不思議。

人によって育ててもらっている私。皆様ありがとうございます。