秋晴れと卵シャカシャカホットケーキ

今日は、気温がかなり下がっていたけれど、お日さまがのぼり始めて気温が少し上がってくると、とても気持ちのよいお天気。

今朝はご飯粒を食べる気分でなかったので、ホットケーキにする。ホットケーキの素の買い置きがなかったので、めずらしく卵白を泡立てて、お砂糖、お塩、重曹で作る。

一時期、お肉も玉子も食べる気にならなくて止めていたけれど、この頃は玉子は食べてもいい気分になっているので、1〜2日に1度くらい卵を食べている。

以前、生命力ガタ落ちで、何も食べる気もせず、生きる気さえも起らず、沈んだ世界にさまよっていた時、生玉子を食べてベクトルが上向いたことがあった。思考とは別の所で自動に働いてくれ私を助けてくれる身体さんってすごい、おもしろい、ありがとう、と思ったし、玉子っていう食材ってこんなに力をくれるんだ、玉子(卵)って本当に生命なんだな、と思った。

時々、ぼーっとしてホットケーキを作っていて、お砂糖を入れ忘れていたり、重曹入れ忘れてたり(一体、どれだけ、ぼーっとしてるんだぁ?!)ってこともあったけど、今日は80点ぐらい付けてもいい位に出来上がり。

なないろのんたで買った出雲の紅茶(国産紅茶は美味しくないと思っている人、お勧めです♪)を入れて、自家製ジャムと一緒に食べる。


卵のことを考えていたら、小さい頃に鶏を飼っていたいた事を想い出した。多分私が幼稚園に入る前だったのだろうと思うけれど、父方祖父の所で親が鶏を貰ってきた。父親が鶏小屋を作って、一度目の鶏小屋は2羽が入る程度のものだったけど、二度目の鶏小屋は3〜4羽が入れる位に少し大きかった。

サクランボの木の後ろにあった鶏小屋に卵があるかどうかを見に行くのは楽しみだった。小さな私は、くちばしで突っつかれるのではと最初の頃は怖かったけれど、だんだん慣れてくると、草をあげると鶏がつっついて食べてくれるのが単純だけど面白かった。そんなことがとても楽しかった。

鶏は、何年かたつと(2、3年位?)お肉が堅くなるからと祖父から通達があり、父の親元に戻されて処分(多分、お祖父ちゃんが首をチョン)され、そしてまた我が家に戻ってきて、裏の木小屋に吊るされていた。鶏のもつ鍋を食べた記憶もあるから、きっと父親が羽をむしって捌いたのだろう。それは滅多になかったことだけれど、当たり前のこととしてあったように思う。世話をしていた母親は、悲しかったようだけれど、子供の私は親の悲しみなど解からず、それはそういうものなのだと思っていたように思う。

サクランボの木は、毛虫が沢山くるからということで切られてしまい、鶏も飼っているうちに、餌代も高くなったり、母親が最後殺されるのが嫌だということで、スーパーで買えばいいってことになって、結局飼わなくなってしまった。

今また、時々、鶏がいたらなぁ、と思う時あるけれど、朝からコケコッコーと鳴くのはご近所さんにも迷惑だろうし、(私が小さかった頃に比べて、田舎と言えども近隣の家は3〜4倍位?に増えている。)野生の強いチビクロ(お猫)はいるし、留守した時や、私が病気になってしまった時のことなどを考えると、代わりに面倒を見て貰える人もいないので、飼えない。

思えば、今とは違う豊かな時間が沢山あったように思う。電子社会の現在とは違った形の心地よい温もりのある時間を小さい頃に沢山持つことができていた事に感謝。

卵1つで、めずらしく色んな事を想い出してしまったけれど、今日は、そんなことを思い出させ、その位置に心を合わせてくれるほど、静かで美しい秋晴れの一日。