長谷川派の金屏風@グラントワ

久しぶりにグラントワ(石見美術館)へ行った。アッシーばかりしてきた私だけれど、今日はアッシーしてもらう側。そのうちに、やっぱり自分で運転するほうがイイと言いだすのだろうけれど、アッシーしてもらうのも悪くない。

ふと、ふられてしまって半年以上も会ってないあの人と来た事があったことが想い出された。心の距離感が今よりあったことを想えば、一緒に来たのは出逢ってまだ間もない頃だったのだろうと思う。その時の空気が蘇る気分。場所のもつ空気、あの人のもつ空気、私が感じていた空気。独特の審美眼をもつ人に感じられた美しきその人は、私とは趣味嗜好も随分と違ったのに、出会って付き合う事になったのは、私達の意思のみならず、その時の必然と、必要があったからなのだろうと今は思う。入り過ぎて、自分の位置が解らなくなって、色んな違いが大きくなってもつれて苦しくなっていった。解らずにいたこと、解ろうともしなかったこと、頑なに閉ざしたことが、お互いを徐々に辛くさせていった。いい歳して下手な喧嘩?もした。広く解っていたかったから、世界を壊したくなかったから、距離を保とうとした人だったのに、深入りしすぎてその人が嫌う事もきっと沢山した。尊重し関わる事と、逆に関わらずにいる事の、どの辺りにメモリを合わせておけばいいか、解らなかった。

動けば遠くなるけれど、そこに運行する世界はあるのだから、下手に寂しくなることもないのだろう。暫く会っていないその人の事を想い出しながら、そんなことを思った。


美術が好きだという私を助手席に乗せてくれてグラントワまで連れて行ってくれた人は、美術にはあまり興味関心がない。良さというのはそれが好きで沢山関わったからより解るもの。フィット感なさげなのを少し気の毒に思いながら、お互いに独自の目で鑑賞をする。

署名も落款も無い「長谷川派」とだけ作品名として書かれた作品。とても素晴らしかった。サインは無いけれど、長谷川等伯が関わり、直接筆入れをしたのではないかと思わせてしまう作品。今でない時間、だけど在った時間に行ってしまうような、そんな気分にさせた。すすきの向こう側に昇り始めの銀色の月(酸化して色は今は黒くなっているけれど)。日本特有の響き合いが織りなす世界。月は低い位置にあって、月にはすすきがかぶっていて、こんな描き方はたぶん西洋の人はしないだろうと思う。日本人ならではの美の世界。日本人ならではの美意識。この澄んだ美しい景色は日本にあってこそと、私の中に日本人の心が育まれているような気持ちがした。

同じ金屏風でも時代が降って現代に近付くにつれ、画一的になってくる。明治、昭和、平成、とそれぞれの時代のそれぞれの特徴的な作品が展示してあった。時代の変遷は興味深かった。同行人は力強い感じの現代の作品を気に入っていたけれど、個人的には、今は強い表現で描かれた抽象的なものよりも、小さな音も聴きとれるような、多くを受け入れて具象で描かれた作品に心が向かう。

解説のボランティアをして下さった初老の方が、どの金屏風もグラントワが持っている館蔵品の作品であると言われていた。よい作品を持っているなぁとシミジミ思った。またあの「長谷川派の作品」に会いたい。望めばきっと会えるに違いない。

同行の人は、別の展示室のアールデコリトグラフにかかれたフランス語の解説をしてくれた。金屏風の作品では同行の人と私とでは好みが違っていたけれど、アールデコのミニサイズのリトグラフの方では「昼と夜(ル マタ エ ル ノワ←スペル書けません^^;)」という作品の前で二人して笑えたのが良かった。

食事は二人の方が楽しくていいけれど、美術鑑賞は基本一人の方がよいなと感じたグラントワでの一日だった(苦笑)。