言葉は厄介

今日は授業内容がよく解らなくて、スルーしようかと思ったら、後ろの席から質問の声があがって、スルーしようと思った事に暫し向き合うことになった。
若い先生は、解らない人の解らないことが解らなくて、解らない説明をして下さる。
先生解ってないなぁ、、とかなりボヤキ気味に思っていたけれど、解ってないのは、考えてみれば私の方でもある。そういえばこういったパターンは過去にも結構あったなぁ、と想い出す。

言葉というのは、時にとても厄介で、同じ言葉を使用しても、その言葉に対するイメージ、網羅している世界など随分と違っていて困る。

先生がホワイトボードに書かれた文字(言葉)は、“非人間的環境”というのと、それに対するように書かれた“人間的環境→医療、患者側でない存在”という2行。この文から、患者側である存在は非人間的??と解釈をした。患者だって人間でしょ?と思ったけれど、人間的という言葉の解釈(というかその言葉が指すエリア)に大きな差を生じていた模様。

突っ込んでも良い事はない気がしたので追求するようなことは止めたけれど、言葉というのは、厄介だなぁと思う。言葉って面倒。でも言葉がないと伝わらないのもまた事実。

質問をされたYさんは、4月に初めて姿を見たとき、何じゃこの人?って思ったけれど、感覚的に私と近いものがあるように思う。言葉なくても直観でお互い通じる部分がある気がする。ちなみにYさんは2児のママでフットサル歴10年くらい?だったかな。

そのYさんの今日の一言「死ぬときは死なせて欲しい」。私的にはniceな一言と思ったので、書きとめておく。