父の命日

今日は父の命日。実家からお墓までは歩いて数分で行ける位近いので、実家のお庭で水仙を沢山摘んでいつものようにお墓に向かった。

遠巻きに新しい花が入っているように見えたから姉が来たのかな?と思いつつお墓の前までいくと姉ではなかった。姉はスーパーで買った花を下葉の処理もせず突っ込んでいる。今回お墓に添えてあったのは我が家にも植わっているスズラン水仙のほか、キンセンカと馬酔木。多分、父の実家を継いでいる叔父さんが家の花を摘んで来て下さったのだと思う。ありがたいこと。通院しておられると以前きいたけれど、叔父さんお元気かしら。父の法事もきちんとできていなくて御免なさい。

今年の命日は、私が父が亡くなった歳で迎える命日。父は亡くなる前、何を想って亡くなっただろうか?自分の人生をどう思って亡くなっただろうか?そんな事を考える。

父と同じ長さの時間を生きてきた私の人生を振り返ってみて、もし私がこの歳で亡くなったとしたら、それでも、まあ、良かったかなと思えるような気がする。勿論、まだしたいことはある。父もしたいこと、できたこと、色々あっただろうと思う。私もまだ生きて、今練習しているピアノの曲も完成させたいし、お庭に植えた薔薇が沢山咲くのも見たいし、まだ旅もしたいし、したいことはある。でも、今までの人生の時間、それなりには、ゴソゴソと、あれこれと、生きてきた。大したことは勿論していないけれど、それでも色々生きてきた。

世の中を大きく動かすような大仕事をするような人もいるけれど、ささやかな日々をささやかに生きる人も沢山いる。長く生きる人もいれば、ほんのわずかの時間しか生きれなかった人もいる。でも、きっと、どれもいいんだろうなと、今日は何となく思う。私がボケけているからそう思うのかもしれない。たぶんその所為は大いにある。春だからそう思えるところもあるのかもしれない。

ま、旦那さんの為にも、お猫達の為にも、自分自身の為にも、まだもう少し(ホントはもう大分)頑張らずにがんばって生きなければいけません。

この世の皆様もあの世の皆様もよろしくお願いします。

今日は、白と紫のチューリップが一つずつ咲いていました。ギーグルグルと燕の声がして(早っ!)カエルも鳴く(早っ!)一日でした。