NAGAYAさんライブ2009

マスター長屋さんから発せられたお言葉。

「愛とは猪2頭。愛ある人とは、猪2頭取って来れる人」

そして、「口説き落とすには、画策すべし。」
でもって、「僕は抽象論は言わないからね。具体的には、飲みに行ったら終電に遅れる。帰らせない。帰らない。」ですと。ホント、ずっとPCの前にいても始まらんよね。(って、今日もPCの前にいる訳ですが^^;)

今回ニヤニヤ笑いながら葉巻を吸う長屋さんは、お話になる内容に、か〜な〜り〜悪者感がありました。っていうか、私が余りにオコチャマなので、悪者風に感じられました。

そいういえば、最近衝撃を受けたA氏も言っておられたな。悪い事もするようにって(笑。ランプ作家の泉さんも、言っておられたな。優しい人っていうのだけじゃ、世の中生きていけないよって。

誤解のないように書いておくと、勿論、長屋さんのお話は、個別な個人レベルのお話のみだけでなく、野生、民族などのお話もあり、種として存続する場合の優位性についてなどのお話もして下さいました。

今回は、演奏よりも演奏の後の方が個人的には面白かった。

以前より、腕や胴が太くなられた長屋さんによるお酒のお話。ウォッカラム酒が好きだと言われていた。カクテルなんかとても好きらしい。
え〜っカクテルぅ〜?そんなん女子供の飲むもんじゃん!ってそんなことも思ったりもしたけれど、ま、でもヘミングウェイなんかも飲んでいた訳で、カクテルが発祥したのを考えても始めは野郎どもが考えて飲み始めたんだと思うし、長屋さんと、葉巻と、カクテル。悪そうにみえて、悪くない図である。

カクテル、ヘミングウェイって連想していくと、長屋さんって、今後文筆業の方に軸を移されて行くのかなぁという想像もしてみたりして。いずれにせよ、磨かれた感性を持った人の作品が、音楽にしろ文筆にしろ、人の心を捉え動かす。しっかりとした現実の裏付けがあるからこそのものだと思う。

泰山なんとかという中国のお酒をご住職がふるまって下さった。驚くなかれ、52度?!水と小麦と豌豆ともう一つは中国の漢字読めずのもので作られたお酒。長屋さんは吹いておられた。植物好きのCらんと、私は大丈夫?♪匂いは嫌いだったけど、私的には味は好きだった。37度?のジンより飲みやすかった気もする?

しかし、お寺で葉巻にちょっとばっかしエロスなお話。無礼講であったと思われます。ご住職様、私の過ぎた冗談は場がそうさせたということで、申し訳ありません。謹んでお詫び申し上げます。でもホンワリ楽しかったです。温かい理解に繋げて下さったきがします。ありがとうございます。

話は前後してしまうけど、会場の準備中、再販されて新しくなった「うつほ」というタイトルのCDを発見。何気に手に取ってみた。長屋さんのCDのジャケットは、どれもすごく美しいけれど「うつほ」のジャケットの写真もものすごく綺麗だった。どこなんだろう?・・・と呟いていたら、遠巻きに楽器をセットしておられた長屋さんが声をキャッチされたようで、それがバイカル湖で撮られた写真であることを教えて下さった。

本当に美しい写真で、ずっと見ていたら、なんだか変な気分になってきた。そこへ行きたいような、帰りたいような、私の意識が私を越えて清まりたいような、そんな気分にさせる写真だった。バイカル湖の事を知ったのはたぶん15年位前。バイカルアザラシが住んでいる湖で、淡水湖で、とても透明度の高い湖で、工場が立ってしまい汚染が懸念されているという記事を以前勤めていた職場で読み、何故か記憶に残った。(後日検索したバイカル湖のショッキングな映像http://www.youtube.com/watch?v=gvfgXTpNegA&feature=player_embedded#t=300,他にも大戦中に悲劇もあったみたい。ものすごく美しいものに、ものすごく悲しいことが含まれていることは多々あること。人間のエゴは地球を汚しもし、人間のエゴは地球にのみこまれもする。忘れてはいけない、それら両方のこと。)

さて、もう4回目になるライブ。つまりお寺の炊事場も4回目。そこでは、日影の女衆(スタッフ)は、持ち寄ったお結び食べたり、イチジク食べたり、コーヒーやビワ茶を飲んでみたり。ご住職が差し入れて下さった塩饅頭も美味しかった。昭和初期風に踊る愛ちゃんのご指導のもと、ヘンテコな踊りも踊ってみた。みんなでするヘンテコ踊りは楽しく、ロシア人形マトリョーシカ風の愛ちゃんはとても可愛かった。マトリョーシカ2号、3号がポコポコ現れてくるのを皆で想像する。20号ぐらいいると更に楽しいね。

そういえば今回、一緒に駐車場係をしながら上関の原発に関するお話をしていて、それがストップされるということを、まるで疑うことなく信じていた愛ちゃん。信じている、というよりも、そうであると知っている、という方に近い。未来に関して「そうであると知っている」その感覚ってすごい。

今回の主催者のNOLYさんもストップするということを「すでに知って」いて、先日一緒にラーメンをすすりながらその話を聴いたときはびっくりしたけれど、理由もなしに不思議と腑に落ちた。繋がりを確信できていて、未来を知っている人達は強い。

色んな風景の中で、特に印象的に素敵に思ったのは、愛ちゃんがみんなの集合写真を撮ってくれていた時の表情。愛ちゃんが想う、愛ちゃんが愛する、友達。どんな風に友達を想っているかが伝わってくるようで、ものすごく魅力的で素敵な笑顔だった。

他にも、久しぶりにお会いしたヨガのエイコ先生は、いつもキレイではあるけど、更にステキになられていたし、Z君にもお話してもらって、とてもうれしかった。いつもお母さんの側から離れられない赤ちゃんだったのに、Z君は一人でも安心して居れるくらい落ち着いてしっかりしてきてた。子供の成長ってすごい。環境もいいんだろうな。他にも久しぶりに会うYKさんやRさんとも少しお話できた。好きな人達が健やかだったり、キレイであることは、嬉しいもの。好きな人達とお話できること、そんなちょっとしたことが、ありがたく嬉しかった。

長屋さんの法明院さんでのライブは今回で4回目。その前に2度聴いているから、トータルで6回聴いていることになる。当初の衝撃的な気分とは、今は違う。今回は、音のエリアが違って聞こえた。その意識はつき抜けて宇宙的というよりも、すぐ傍にある大切なものに向けられていた気もする。

長屋さんの姿もほぼ見えない一番後ろの席にいて、演奏を遠くに聴きながら、私の内側を今回もぼんやり観察していた。色んなものがホニョホニョと出てきては過ぎっていった。それらの殆どは、掴めなかったともいえるし、掴まなかったともいえる。どうしようもないものもそれなりにあるけれど、さあ、それらはそれとして、これからどうしようかな、何処へすすめて行こうかな。いずれにせよ、いつももっと癒されていよう、自分自身に。

演奏が終わってから席を立つと、旅の途中のNBYちゃんを発見。まるで別人のように爽やかで、スッキリした顔になっていた。6kgも痩せたとのこと。

NBYちゃんと言えば、前々回?演奏中に釣り上げられたマグロ状態になって、会場で踊ってしまっていた。捕獲されて水を飲まされてたNBYちゃん。あれからインドに行って瞑想したり、屋久島へ行ったり、色んな人と出逢って、色んな体験をして変わっていったんだそう。会えて、お話ができて、良かった。大変な事も、敢えて背負って前に歩みを進めてみる。「始めは勿論怖いし、勇気もいるけれど」と言っていたけど、でもそれでいいということを疑うことなく”すっかり解って”しまっていた。

欲しい答えや、通じて行かない気持ちは、意外な所から応えがやってきて、ナビゲートを受ける。ありがとう。NBYちゃん。マグロになってた時は、ホントにモーー;って思ったけれど、でも今回も、ホントにモ〜〜、で、ありがとう。

恐ろしく明確に美しい長屋さん。次は文筆の方を楽しむとするかな。もちろん音楽もだけれど。遥か遠い原始の“生きる”力が蘇るように。

縄文のような、生命の、その本来の生きる力というものは、私には取り戻せていない。しからば、具体的に身近な所からってことで、まずは恋愛(人間のみにあらず、でも人間も?♪)を画策する所から始めなければなりませぬ?

今は、画策するという言葉が、私の中で妙に面白く反応して、それが楽しい。打ち上げが終わって帰り際にやや酔っぱらい?気味の長屋さんからも言われた。「具体的に画策するように」と(笑。

今回、主催者のNOLYさんは、防府の災害で被災しているにも関わらず、沢山の美味しいご馳走をふるまってくださいました。久しぶりに牛肉なんて食べました。

チラシ作り、チラシ配布、宣伝活動、スタッフ手配、会場の手配、打上げの料理の手配、会場セッティングをどうするか(今回は泉さんのランプ)、来られる方の名簿作り、宿泊手配(?)、長屋さんとの打ち合わせ、等々、これらを大変な状況の中でもこなすことができる秀でた主催者さんには、恐れ入る。いつもありがとうございます。

福岡から来られていた方があって、アクロス福岡でライブを検討されているみたいだった。場によって、音は変わる。以外と、場によるものは大きい。
次回は、部長と共に、アクロス福岡で聴いてみたい。


最後に、法明院に置かれていた(ずっとあるものではなく、今だけだそう)ダライ・ラマ14世の直筆の色紙の言葉と、長屋さんのオフィシャルウェブサイトからの抜粋を記して、感想を終わります。


『縁起の見解が意味していることを理解することを通じて、非暴力で慈悲の実践をより発展させることができますように』  釈比丘 ダライ・ラマ 6/03/25


ギリシアトラキアの神・ディオニュソスは「破壊されざる生の根源像」として、生命の力そのものの表象であり、変幻自在な音楽そのもの』  長屋和哉



2009/09/29記す